上の写真にはヒトラー首相とポルシェ博士の姿が見えます。
ポルシェ博士が模型を使ってヒトラー首相に何やら説明しているように
見えます。
ヒトラー首相も子供のように嬉しそうな顔してますね~‼
ヒトラーとポルシェ
フォルクスワーゲン・タイプ1となる自動車の開発は、直接には1933年、ドイツ首相に就任したヒトラーが、ベルリン自動車ショーの席上でアウトバーン建設と国民車構想の計画を打ち出したところに始まる。当時、いまだ高価だった自動車を「国民全員が所有できるようにする」というプランは、ヒトラー率いるナチス党が国民の支持を得るのに絶好の計画であった。
ヒトラーは、後にスポーツカーメーカーとなるポルシェ社の創業者であるフェルディナント・ポルシェに国民車の設計を依頼することになった。ポルシェはダイムラー・ベンツ出身の優れた自動車技術者で、退社後の1931年からはシュトゥットガルトに独立した設計事務所を構えて自動車メーカーからの設計請負業務をおこない、ナチスの支援していた「アウトウニオン・グランプリカー」(いわゆるPヴァーゲン 1933年)の設計にも携わっていた。
ポルシェ自身、生涯に開発したい車として「高性能レーシングカー」「農業用トラクター」「優秀な小型大衆車」を挙げていた。そして強豪レーシングカー開発と並行しながら、1920年代以来、在籍していたダイムラー・ベンツ社での車内開発提案を皮切りに、独立後の1932年のツェンダップ社、1933年のNSU社といった自動車メーカーとの提携など、機会を得ては「フォルクスワーゲンの原型」と言うべきリアエンジン方式の小型車開発に取り組んでいたが、その度に、企画立案時点か、ようやく試作車を開発した段階で、予算不足や不景気、提携メーカーの弱腰などによって、いずれも計画を頓挫させ続けていたのである。それだけにヒトラーの提案は「渡りに船」であった。
運転はしなかったが自動車に乗ることが好きで、メルセデス・ベンツとタトラを好んだカーマニアのヒトラーは、ポルシェに国民車の条件として、以下のような厳しい条件を提示した。
①頑丈で長期間大きな修繕を必要とせず、維持費が低廉であること
②標準的な家族である大人2人と子供3人が乗車可能なこと(すなわち、成人であれば4人乗車可能な仕様である)
③連続巡航速度100km/h以上
④7Lの燃料で100kmの走行が可能である(=1Lあたりの燃費が14.3km以上である)こと
⑤空冷エンジンの採用
⑥流線型ボディの採用
オペルP4(1935-1937年)。当時のドイツで最廉価の1000cc級セダンであるが、旧式な外見で中身も前後固定軸、サイドバルブエンジン搭載という旧世代車であった
これらの条件はもとよりポルシェの目指していた国民車コンセプトに多く合致していたが、ヒトラーがポルシェに強調したのは「この条件を満たしながら、1,000マルク以下で販売できる自動車を作ること」であった。
ヒトラー自身も課題の厳しさは承知していたようだが、当時のドイツ製4人乗り小型乗用車で、大量生産による低価格化を実現した代表例のオペル「P4」ですら、定価1,450マルクに抑えるのが精一杯だった[5]ことを考えれば、販売価格1,000マルクで必要とされる性能の自動車を開発することは極めて困難なテーマであった。
ドイツの各自動車メーカーが政府統制によって結成した団体「ドイツ帝国自動車産業連盟」(RDA)が、1934年6月にポルシェ事務所と開発契約を結び、計画がスタートした。ポルシェ社は、決して潤沢とは言えない開発予算の中で、1930年代初頭から幾度となく試作されては頓挫してきた小型大衆車の開発経験を活かして、開発を進めた。
開発課程と完成 生産の頓挫
しかしフォルクスワーゲンの開発は難航した。計画からは大幅に遅れが生じ、ポルシェの責任を問う声も上がったが、ヒトラーの庇護で開発は続行された。
契約を結んでから2年後の1936年にようやくプロトタイプ2台の製作が完了、1937年には計30台のプロトタイプ(W30シリーズ)がダイムラー・ベンツ社で製作された。ナチス親衛隊(SS)隊員から運転免許保有者たちが選抜され、彼らによって過酷なテストドライブを受けることで、プロトタイプの弱点が洗い出され、強化された。
また生産工場の建設計画についても多くがポルシェに委ねられたことから、開発期間にポルシェは2度に渡ってアメリカ合衆国を訪れ、大衆車の廉価な大量生産のノウハウを得るためにフォード・モーターなど大手自動車メーカー各社の工場を、現場の生産体制に至るまで詳細に視察した。この際には自動車量産の始祖とも言えるヘンリー・フォードとも会談している。フォードはドイツでの自動車生産の意図には大いに理解を示したが、ポルシェの示したフォルクスワーゲンの設計コンセプトについては、持ち前の保守性から評価しなかったという。
翌年1938年には最終プロトタイプVW38が完成し、後年までよく知られるフォルクスワーゲンのスタイルが決定した。
同年5月には工場の定礎が行われ、その会場でヒトラー立ち会いの下、ポルシェによってプロトタイプのセダンとカブリオレが披露された。上機嫌で賞賛と国民車普及の演説を打ったヒトラーは、その場で生産型の車名を『KdF-Wagen(歓喜力行団の車)』と命名した
こうしてKdFの大量生産準備が進められることになった。KdFの販売にあたっては、国民はクーポン券による積み立てでKdF購入費用を貯蓄し、満額に達した者に車を引き渡すという計画が立てられた。
しかし、ヒトラー自身が1939年に第二次世界大戦を勃発させてしまったため、量産直前まで到達した国民車構想はストップした
この結果、KdF-Wagen 製造工場は軍用仕様のキューベルワーゲンやシュビムワーゲンを主に生産するようになった。若干数の KdF-Wagen も軍用車両として用いられた。この工場では戦争捕虜や収容所収容者が過酷な労働に従事させられた(現在のフォルクスワーゲン社に、この戦時中の強制労働の直接責任があるわけではないが、同社は歴史担当部門を設け1998年から各種の戦争補償プログラムをおこなっている)。
以上、ウィキペディア。
昨日の日曜日、ゲートボールをしている公園の脇に“1958”を駐車していました。
ゲートボールをプレイしていた75歳過ぎのご老人が話しかけてきて....。
“この車は何年製かね??”
“1958”です‼
“53年前か~”
そんな会話から、ご老人が最後に
“ヒトラーの遺産” だな‼と....。
私もヒトラーがポルシェに造らせたことは当然知っていました。
“ヒトラーの遺産”
何となく洒落た言い方だな~と心に残ったわけです。
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